漆塗りの盆

我が家に一枚の盆が有る。
朱色の漆塗りの盆。
コレに出会ってから、漆器の魅力に取り付かれ
我が家の食卓の基本の器は、漆器となった。

縦一尺横一尺三寸の黒塗りの敷き台。
白磁の茶碗にご飯を盛り、朱塗りの碗に味噌汁、
皿に鯵や鮭などの焼き魚、小鉢に野菜のお浸しや
胡麻和え、手前に箸置きと漆の箸をお敷きの上に
配置して、食卓に置く。大振りの漆器に、今なら
竹の子の炊いたものなど入れて、どんと置く。
これが我が家の定番の昼食。
まれに麺類を食べる時もある。なめこ蕎麦や鴨南
ばんなどを丼サイズの漆塗りの碗で食べる。
食後は、盆に急須と茶碗を載せて運び、茶を飲む。

漆器でものを食べると、あったかい気持ちになる。
静かな心で、豊かな時間が流れる。
漆塗りの歴史は古く、日本では縄文の前期に発掘
された遺物があるそうだ。

ものを食べる器って重要だと思いませんか。
寿司の出前を取ったとする。安っぽい桶に入った
寿司をそのまま食卓に出すのと、萩焼きや備前焼
きなどのどっしりとした皿か、塗りの箱に移し替
えて出すのでは、どっちが旨そうか。

贔屓にしている呑み屋があり、実に美味しい魚を
出してくれるんだけど、親父が器に無頓着で、安
い皿に雑に載せて出すので、もったいない。値段
も安いから文句言えないんだけど。
とある店に入り、白木のカウンターに座る。
鳥貝とわけぎのぬたが小振りの鉢に入って出る。
食べ終わると鉢の底に桜の絵が浮かび上がる。
「そうか、桜の季節か」
碗が出る。蓋を取ると裏には金粉でしだれ桜が描
かれていて、湯気で霞みがかって、おぼろ桜だ。
あぶらめの吸い物をすすると、微かに桜の香りが。
「この碗を使えるのはこの時期だけなんです、十
 一ヶ月はしまわれているんです」
なんていう粋な事は親父に求めないが、出してる 
料理が良いだけに残念だと思う。

もっとも、世の中にはひどい親がいるもんで子供
に出来合いの惣菜をスーパーで買って発砲スチロ
ールの入れ物のまんま出して食べさせるらしい。
育った子供は美意識なんか持てないでしょう。
ぞっとします。亭主は可哀想だが、こんな雑な奴
を嫁にした不運で我慢するとして、せめて日本の
未来を託す子供には・・・。
なんて言ってると、
「うるさいわね。あんたに関係ないでしょう。何
 よ、この、食い意地が張った、卑しい人ね」
なんて言われるに決まってる。
「すみません、魯山人の爪の垢でも煎じて飲みま
 す。御免下さい」
でも、俺としては、やはり、このような方々が温
泉に行って宿で出された品数だけは沢山あるが、
水っぽいマグロや冷めた茶碗蒸しや揚げてから時
間がたった天麩羅などを
「おいしい」
と喜ぶ方々は理解出来ないし、いままで気付かず
に平気で食べてた中国野菜が問題になってるから
と買い控えたりするので、料理人は手を抜き、日
本の農家が作った野菜が高騰してしまうのが嫌だ
と言いたい。少しは俺にも迷惑がかかってるのだ
と申し上げたい。
さらに、どっか行っちゃってくれ、だ。

漆塗りの話だった。

我が家の漆器の大半は、輪島に工房を構える漆塗
師「A」の作品であります。件の朱色の盆も彼の
手によるものであります。
私の長い付き合いのある人物が
「輪島に行きたい、A氏に会いたい、Sに泊りた
 い、いつ行こう、いつ行ける」
と、二年越しで催促されていたのが、いよいよ実
現の運びとなり、四人様ご一行二泊三日・能登半
島と金沢の旅が決定しちゃったわけです。
「A]氏に連絡を取ると、我々が行く前日まで東
京の西麻布で個展をやってるとの事。では、その
個展に顔を出します、その時にくわしい話を。と
言う事で、個展開催中のある晴れた日に会場に馳
せ参じた。
「いやあ、お久しぶりです、元気そうで」
と挨拶を交わし、作品を拝見していると、
棚に飾られた一枚の盆に惹き込まれてしまった。
「こ、これは」
「あー、それ、銅鑼盆。ひっくり返してみて下さ
 い。盛り付け皿にして使えるでしょう。」
確かに、八寸など盛ると素敵である。西京焼きな
ど盛ってどんと出すと映えそうである。盆に使う
面は、鍋物の野菜や魚介類を乗せて出すといい塩
梅である。盆ごと寿司屋に持って行き、これに握
り四人前盛り合わせて出前を頼んだら、職人の方
も手が抜けないであろう。
縦にして持つと確かに銅鑼の形だ。面白い。
塗りは黒だが下塗りの赤が効いていて素敵である。
値段を見ると、A氏の物にしては安い価格だ。
その訳を聞いて合点がいった。
輪島を襲った地震。
その時にいくつもの土蔵が崩壊し、百年以上経た
欅の太い梁が出たのである。それを使って作った
ので、材料代が掛からな分値段を下げる事が出来
たのだ。
欅の古木は、捨てられるか、古木を集めて法外な
値殿で売る業者の手に渡るかしたであろう。その
欅が見事に再生され、更に百年、二百年、盆とし
て使われる。素晴らしい事である。この出会いを
見逃す手はない。ここで買わなければ後で悔やむ
のは必至である。
という訳で、輪島の工房に訪ねる前に、我が家に
盆が一枚増えてしまった。

いよいよ輪島・金沢の旅である。
メンバーがいつもと違う旅である。
安宿に素泊まりして、町に繰り出し行き当たりば
ったり呑み屋に入り、各人好き勝手に食って好き
勝手にくだを上げ、いぎたなく飲むようなご一行
ではないのであります。
私より年長者が二人もいる。
その二人が、私よりはるかに器に造詣が深く、食
に対してこだわる方々なのであります。
当方としても対策を講じないと大変な目に会う。
予想される事のひとつに、
昼間っからステーキや寿司屋に入って、豪勢に食
事をする。当然酒も飲む。
実は、夜の飯が数々の山海の珍味攻めになるであ
ろう日の昼飯は、軽く蕎麦で済ませたいのが本音
なのだが、そうはならないであろう。
俺が以外に小食だという事情は無視されであろう。
昼間から酒を飲む習慣がない事も、ああ、そうな
んだと言われるだけであろう。三人が飲んでる脇
で、飲まないでいられる程強い意志は持ち合わせ
ていない。そこで、ある一計を案じた。
移動手段としてレンタカーを借りる。運転は俺が
一手に引き受ける。
さすれば昼間から酒を飲まずに済む。

1日目 輪島
 
輪島空港 11時過ぎに無事着陸
Nレンタカーで車に乗り込み、輪島市内に向かう。
輪島の漆器を語る上で、誰一人知らぬ者はいない
と言ってけして過言ではない「K・I三郎」
実は、A氏も、I三郎さんの作品に触れ、その器
に魅せられて、輪島のI三郎を訪ねて共に酒を飲
み、語らい
「あなた輪島に来なさい」
その一言で、漆職人になる決意を固め、妻と生ま
れたばかりの娘を引き連れて輪島の地に移り住み
苦節二十数年、今日の地位を築き上げたのだ。
I三郎さんがいなければA氏は漆をやっていなか
ったであろう。K・I三郎という輪島塗における
偉大な巨木は、2005年この世を去る。その後
を継いだ息子さんが、時間を割いて、作品を見せ
てくれるという。さらに、工房まで案内して戴け
るという。これも今回のメンバーのひとりが段ど
ってくれたお陰である。2時過ぎの約束になって
いる。K氏に会えるのも楽しみだ。

「その前に飯を食おう、寿司屋がいいかな、どこ
 かある?」
「S寿司がいいらしいですよ、行った事がないの
 で本当かどうかわかりませんけど」
「じゃ、とりあえず行ってみよう」
寡黙な運転手の俺は、その寿司屋の電話番号を聞
いてナビに打ち込み車を進める。
街道沿いにぽつんと建っているこじんまりとした
店に入る。
この寿司屋が大正解であった。
のれんを潜ったら、目の前の白木のカウンターは
8席全てが客で埋まっている。4人の間に一瞬、
どうする、と逡巡する間が生まれる。
「いらっしゃい」
板場で寿司を握る恰幅のいい年嵩の親父がぼそっ
と言ってじろっと睨む。
「予約してないけど、四人、いいですか」
「お座敷でよければ、どうぞ」
痩せた中年の若い衆が応える。
奥の座敷に3人連れの先客がいたが、もうひとつ
の席が運良く空いていた。
靴を脱いで席におさまる。
「まずは、ビールだな。ビール下さい。
「わたしもビールを頂こうかな」
「あたしも」
「ビールは何本お持ちしますか」
「生は・・・ないよね、2本でいいか、その後酒
 にするから」
「お茶下さい」
これは当然、俺。
「カウンター、空かないかな、まあ、しょうがな
 いか。とりあえず、喉がかわいた」
ビールが運ばれてくる。
「良い旅になることを祈って・・・乾杯」
「乾杯」
若い衆が小鉢を置いて去る。
「お、旨いねこれ」
人数分出て来たので、俺も箸を付ける。
「もずくですか」
「いやあ、もずくにしては太いだろう、昆布を細く
 切ったやつだと思うけど」
人の帰る気配がしたので、急いで靴を履いて店に
行き、親父に声を掛ける。
「カウンターの方に移れませんか」
「おぅ、いいですよ、どうぞ」
全員移動して、席に着く。
ここからが水を得た魚の如き様相となる。
寿司ネタの書いてある板を睨み据え
・・・のどぐろがあるぞ。
・・・あのガス海老って、どんな海老かしら。
・・・ほうぼう、おいしい?
・・・まずはヒラメからいくか、いや鯛だろうな。
などと考えているに違いない。
俺は酒も飲めないので
「地のものを一貫ずつ握って下さい」
と、大将に声を掛ける。
「ひかりものは大丈夫ですか?」
「嫌いなものはありません。ところで、これ、もず
 くですか?」
「違うよね?昆布だよね」
すると大将。
「なんだよ、俺が今から説明しようと思ってたのに
 ・・・それ、黒もずく、この時期しか獲れない」
「もずくなんだ。これ、歯ざわりがいいよね」
「細いもずくが人気あるけど、能登ではこっちの方
 がいいと言う人も多いよ・・・まずは平目から」
俺の目の前に小振りの白身が一貫そっと置かれた。
口に入れる。
三人が俺を注目している気配がひしひしと伝わる。
ゆっくりと咀嚼する。
「伊武ちゃん、どう?平目?」
俺は静かに、だが重々しく答える。
「甘い。こりっと・・・いやあ旨いな、これは」
お茶を飲む。
「鯖です」
食う。実にいい〆具合だ。上品な油が口内に広がる。
「ガス海老」
初めて食べる海老は、甘エビに近い大きさでありな
がら、味はむしろ車海老のほうに近い。
「これも今の時期に取れる、昔は取れても放ってた
 んだけど、かすの海老がガス海老になったん、ほ
 い、のどぐろです」
「いやあ、コレ,物凄く旨い・・・絶品、まいった」
この辺りになって、ツマミで酒を飲んでいた三人が
俺もそろそろ握ってもらおう。私も。あたしも。と
なり
「平目、エンガワあったら一貫ずつね」
「あたしガス海老と甘エビ」
「私はほうぼうとのどぐろ下さい」
「お酒のぬる燗、もう一本。あと白エビがあるな、
 エビ三種、一貫ずつ」
「私は熱燗を、もう一本。貝は何がいいかしら」
「あたし〆鯖を、さより綺麗、さよりも」
「鯛を2貫」
「あたしも鯛」
「穴子、いや鰻のほうがいいか、うん両方頂きたい 
 な。東京風の蒸した鰻じゃない筈だから旨いと思
 よ、おそらく」
「このわたはどうやって握るんですか・・・あぁ、
 しゃりの中に埋めて・・・美味しい」
「こっちにも、このわた」
「わたしも、このわた」
「蟹を2貫」
「鯵」
「あおり烏賊」
と、地物の魚を手当りしだい食べまくり
「いや、この辺でやめとこう、いい時間になったし
 勘定して下さい」
「ああ、美味しかった、食べすぎちゃったかも」
「伊武ちゃんはお酒飲んでないし、運転もまかせて
 悪いから、ここ三人で割ろう」
「そうだね」
「そうしましょう」
はい、有難うございます、お気使い恐れ入ります。

ふたたび車に乗り込み、次の目的地をナビに打ち込
観、移動開始。
「えーと、今日の宿は何処なの」
「ここからだと2時間くらい離れたところです。そ
 こでA氏と奥さんも一緒に一杯やろうと・・・」
「じゃあ、輪島を4時には出たほうがいいわね」
「もう少し早く宿に向かったほうがいいかな、風呂
 にも入りたいし」
「まあ、1時間はあるか」
「作品、わざわざ展示して待っていてくれるんだか
 ら、ゆっくり見たいし、工房の案内はお断りさせ
 て頂いたほうがいいかしら」
「まあ、とりあえず行ってからきめましょう」

工芸館に到着。
特別に展示してくれたI三郎さんの息子さんの作品
を拝見する。
やはりいい器がずらりと並べてある。
目の毒だ。
見るだけにするぞ。
三人の方々は、それぞれ数点選び購入する構えだ。
ふと、小振りの碗に惹かれた。というより碗の名前
に引っ掛ったのだ。
マリコ碗。
と名付けられた漆器の碗は、朱色と黒がある。
「伊武ちゃん、それ、絶対、まりこさんに買ってか
 なきゃあ」
余計なお世話だ。
まりこというのは、我が妻の名前なんである。
三人は、K氏に話を聞きながら器選びに余念がない。
こりゃあ大分時間がかかりそうだ。
外に出て、煙草に火を付ける。
天気予報では雨の一日のはずなのに、晴れ渡る空か
らは眩いほど光が降り注ぎぽかぽか陽気。
のんびりしている。人も車もまばらで、穏やかな町
である。
マリコ碗。
何故、その名前を碗に付けたのか。
気になる。
館内に戻り、K氏にその由来を聞いてみる。
「わからないんですよ。親父が何で付けたのか、家
 族も誰も知らないんです」
俄然、この碗が気になってきた。
あらためて手に取る。
I三郎はどんな気持ちでこの碗の形を作るに至った
のか。彼にとって、まりことは何者なのか。
また出会ってしまったのか。
A氏の静謐な作風とはちょっと違うが、食卓に並ん
で違和感はないだろう。
何を入れても映えそうだ。
いい器だ。
ひとつ買っていこう。
赤いほうだな。いや、黒もいい。
迷うね、弱ったな、
両方買っちゃうか、でも、さすがにいい値段だ。
うーん・・・・・・・・・。
手に馴染んだ感じが実に良い。
赤が五つ、黒も五つ。
ひとつひとつ微妙に、形、重さ、大きさが違う。
迷いに迷って、これと決める。
うーん・・・・・・・・・・・・・・。
「これ、頂きます」

A氏と会う約束の時間が迫っている。
珠洲市にある今日の宿に向かう。
交通安全週間だというのに、海沿いの道をぶっ飛
ばしてひた走る。
「いい天気でよかったわ」
「日本海の海だね」
「今日の宿が楽しみ」
「どんな宿なの」
「この中では伊武ちゃんしか泊まった事ないから」
「何にもないですよ、テレビもないし・・・至れり
 付くせりのサービスを期待する人にはキツイかな
 。ほったらかしにされて、そこが良いんだけど」
「お風呂はあるよね」
「漆塗りの湯船で、コレがまた良いんです」
「食事はどんなものがでるにのかしら」
「素朴だけど、しっかりとした物が出て来ると思い
 ます。今日は何が出てくるか・・・あ、蕎麦が途
 中で必ず出ます。ご主人の手打ちの、絶品です」
「野菜だけじゃないよね」
「魚もあります、飯は心配ありません」
「私も噂だけは聞いてて楽しみにしてたんだ」
「この辺りに、確か、塩を作ってるところがあるん
 だよね、鹹いけどちょっと入れると旨いんだ。買
 ってきたいんだよね」
「さっきの黒もずくが売ってたら欲しいのよね」
「時間が無いから、明日、早起きして、朝市覘きま
 せんか、A氏の工房を訪ねる前に」
「ああ、いいね」
「それ、いいわね」
「黒もずく、あたしも欲しい」
「朝、起きられますかね」
「起きますよ、当然」
「行くしかないでしょう、朝市」
「のどぐろ売ってるといいな」

国道をそれて、山道に入っていくと、こんな所に旅
館があったのかという場所に黒塗りの館が出現する。
三組ほどの客しか泊まれない小さな宿「S]
着いたというのに誰も出迎えない。
のれんを潜り土間に入って声を掛ける。
奥から奥さんが現れる。
「お待ちしてました。どうぞ」
運のいいことにこの日の泊まり客は我々のみ。
貸切状態。この宿は、部屋出しの食事ではない。
囲炉裏のある板張りの広間で、三組の客が一緒に食
べることになる。貸切なら、気兼ねなく酒盛りが出
来る。
予報では百パーセント雨だというのに小春日和だっ
たし。
今回の旅のメンバー全員、日ごろの行いが良いと言
うことか。
広間の上にある二部屋を男性陣が一部屋ずつ使い、
離れた場所にある二階の部屋に女性陣が。
「Aさん達から連絡ありましたか」
「6時半頃に三人でお見えになるそうです」
今6時か。風呂が一つしかないので慌しい事になっ
た。先に入ることにする。5分もあれば充分だ。
それが、甘い考えだったのである。

奥まった所に設えてある湯殿。
脱衣所も浴室も明かりが点いていない。
照明のスイッチを探すのに手間取る。
浴槽の木の蓋を壁に並べて建てかける。
赤い漆塗りの浴槽には淵までお湯が溢れている。
まずは掛け湯と、洗い桶で湯を汲み上げ肩口から湯
を掛ける。
「ああっちいぃぃぃぃっ」
いい湯加減なんてもんじゃない。70℃はあるぞ。
俺は卵じゃねえんだ。
蛇口から水を出しうめるが、二人は余裕で入れる大
きさの浴槽だ。適温になるまでには相当時間が掛か
る。洗い場の二つの蛇口をひねって水を出し、洗面
器二つに溜めて湯船に投入する。
その作業を繰り返すが、なかなかうまらない。
子供のころ、近所の風呂屋に行くと、タイル貼りの
ふたつの浴槽の片方は熱い温度になっていて立ち入
り危険区域だったが、その信じられない熱さの湯に
じいさんが浪花節など唸りながら浸かっていたっけ。
凄いなあ、いつか僕だってと憧れの目で見ていたが、
今は43℃の湯に入っている俺だ。大抵の温泉は湯
加減41.3度だから何処の温泉に行っても
「ぬるいな、おい、こちとら江戸っ子だい、けちけ
 ちしねえで、じゃんじゃん薪くべろ」
と、昔あこがれた爺さんに近づきつつあった俺でも
無理だ。すっ裸で洗面器に水を溜めてお湯に投入し
ている図も情けない。
いい塩梅の湯加減になるまで相当時間を食ってしま
った。ざんぶと浸かり3分ほど温まって上がる。
「お先でした、いい湯でしたよ」
囲炉裏端に座って寛いでいたTさんに声を掛ける。
「そう、じゃ、ひとっ風呂浴びてくるか」
その時、表に車が止まる気配がした。
Aさん達が到着したのだ、

囲炉裏の脇の細長い一枚板のテーブルに七人が座る。
我々四人と、Aさん、おくさんのT子さん、弟子の
K子さん。
紹介が済んで、まずはビールで乾杯。
弟子のK子さんは、帰りの運転という役目があり、
ひとりお茶で乾杯。
二年振りに会ったT子さん。相変わらず元気だ。こ
のAさんの奥さん、T子さんが素敵に可愛いのであ
る。屈託のない明るい性格で誰からも好かれている。
工房の8人の若い職人の昼飯を毎日作る。野菜のほ
とんどは庭の畑で自家栽培。明日は昼時に工房を訊
ることになっているので、12人分の昼飯を作るは
めになってしまった。申し訳ない。
開いて風干ししたサヨリがそのままの形で出てきた。
箸で摘むには細長すぎる。両手で掴んでかぶりつく。
刺身とはまた違った旨みがあり、魚がもっている微
かな脂身を感じる。
「これは、酒に合う。酒に変えますか」
全員頷き、文字通りの酒盛りになる。
流石に大人の集まり。
気を使うこともなく、遠慮することもなく、すぐに
打ち解け、和やかな酒宴となる。
Aさんの純粋で真っ直ぐな人柄もあり、座にいい風
が吹いている。
この日の献立は
自家製のざる豆腐。
刺身のお造り。
ここで、蕎麦粉十割の手打ちそば出る。
さらに大鉢にほっこり炊いた山盛りの竹の子に、ク
レソンが添えられて出た。
あと2,3品野菜があったと思うが、いい具合に酔っ
てしまって覚えていない。
四方山話に花が咲く。
途中から滅多に客の前に顔を出さない宿の主人も加
わり、楽しい酒宴の夜は更けていく。
しかし、よく飲んだ。最後にはグラッパも飲んだ。
長い道のりの運転と、昼間に呑めなかった分を取り
戻そうとピッチが上がる。
しかし、流石に眠くなり
「さきに休みます」と言うと
もう、こんな時間かと、お開きになる。
寝床に入った途端、瞬く間に深い眠りに陥った。
後で聞いた話しでは、女子衆がお風呂に入って、寝
酒を飲もうと帳場に行ったら
「もうお酒はありません」
と言われたそうな。

二日目は
輪島の朝市で、念願の黒もずくを買い
海沿いの製塩所で、能登珠洲の塩を買い
A氏の工房で、漆器製作工程を見学して、昼飯を御
馳走になり、
この日の宿となる金沢に向かい
大桶美術館に寄って、初代から十代までの歴代の大
桶焼・長左衛門の作品を拝見して、折り良く在宅中
の第十代長左衛門さんのお話も伺えて
全日空ホテルにチェック・インして、汗を流し
Tさん絶賛の金沢の割烹「Z屋」で、鮑の葛鍋、へ
しこ、鳥貝と小わけぎのぬた合え、等など絶品の料
理の数々を味わいながら地酒を飲む。実に美味なる
焼き魚に舌鼓を打ちながら、これは何かと聞くと
「のどぐろです」
そうだ、のどぐろを買うのを忘れてた。まあ、明日
近江町市場に寄って買っていこうと相談していると
「明日は河岸が休みだから、開いてるのは観光客相
 手のお店だけですから、いいものは無いですよ。
 小さいのどぐろなら置いてあるでしょうけど、よ
 ろしかったら、今召し上がってるのと同じ型のが
 手に入った時に、うちで漬けた切り身をパックに
 してお送りしますよ」
何という有り難い配慮であることか。
今食べた感動的旨さののどぐろと同じものが、後日
ふたたび家で味わえる。
この店の事は生涯忘れないぞ。
これで念願ののどぐろも手に入れた。
「加賀れんこんは、どこのお店がいいかしら」
「それでしたらO商店ですね」
即座に教えてくれる。
この店の存在は孫の代まで伝えるぞ。
大満足の酒宴で店を出る。
帰りのタクシーの移動中、ふと外を見ると、満開の
桜が咲き誇っている。一同思わず
「ほうっ」
と、声を上げる。
「運転手さん、兼六園がいいのかな、夜桜が綺麗な
 場所に寄り道してくれますか」
Tさんが粋なアイディアを出す。
しばらく走ると、ライトアップされた満開の桜が延
々と続く道に出る。
「このまま、ゆっくり走って下さい」
思わぬ花見。今夜もぐっすり眠れそうだ。

三日目
近江町市場に寄り、加賀れんこんと、ついでに地物
の蕗のとう、せり、原木しいたけ、など買い込んで
この日、立ち寄る予定の山代温泉に向かう。
午後に出発する小松空港を通り抜け、片山津温泉を
通過して、山代温泉の名宿「A館」に到着。
この宿は、蜀山人が陶芸を習いにこの地に赴いた折
に逗留していた宿として知られている。以前から贔
屓にしているふたりが前もって連絡を入れていたら
しく、玄関を潜ると宿の女将が笑顔で出迎えた。
「まあ、ようこそ、今お茶をお出しします、ロビー
 の方へどうぞ、あとでお風呂に入っていって下さ
 い、のちほどご案内いたしますので」
実は、この宿が目当てではない。このすぐ近くにあ
る九谷焼の窯元の店での器の購入が目的なのである。
しかし、折角だからとお茶を頂き、車を預けて歩い
て店に向かう。
今は四代目になる当主が店に座っていた。先代の元
で蜀山人は修行した窯元である。
九谷焼の皿や茶碗を前にして、三人の目の色が変わ
る。またしても時間が掛かりそうだ。
じっくり品定めをしている三人に付き合っているが
手持ち無沙汰である。買う積もりはないが、手に取
ってみると確かにいい器だ。惹かれるものがある。
この小皿、大胆な色使いが好みではある。でもなあ
我が家の瀬戸物は、ほとんど伊万里系の白地に藍の
模様のもので占めている。
時間はたっぷりある。
小皿を前にして、思案する。
その間に三人は「いいね、これ」「これ素敵じゃな
い」「これ、すごくいい」「ほんとほんと」と数点
選び包んでもらっている。
時計を見ると空港に向かう時間が迫っている。
よし、二枚買おう。
衝動買いである。つらされ買いである。
各人、支払いを済ませ満足して店を出る。
「昼飯、何処で食べますか」
「寿司がいいな」
また寿司か。酒を呑むには確かに寿司屋が妥当だろ
うが、呑まない運転手の俺としては軽く麺類あたり
でもいいんだけどなあ。
「お寿司、いいですね。お奨めの店、T屋の女将に
 電話して聞いてみる」
元気な人たちだ。感心する。
結局、女将推薦の店だけあって見事な握りをお茶を
飲みながら食べさせて頂きましたが、たっぷり寛い
での昼飯で時間ぎりぎりとなり、高速を飛ばして小
松空港へ。
なんとか間に合い、
「いい旅だったね」
頷きあい、快適な空の旅の内に無事羽田に着陸して
解散となったのであります。

なかなか楽しい旅ではあったが、
あのメンバーであと二日ほど一緒にいたら
俺は、おそらく倒れていただろう。
帰宅して、まず叫んだ言葉は
「野菜が食いたい。今日は酒を抜く」
であり、次の日から、しばらくは
豆腐、漬物、胡麻和え、こんにゃく田楽、わかめと
胡瓜の酢の物、れんこんの煮物、といった精進料理
しか口に出来なかったのであります。

俺の人生、もう長い事無いのかもしれない。

だが、嬉しい事に
マリコ碗は、我が家の食卓にあたたかく迎えられて
九谷焼の小皿も
「こういうのも、あるといいもんだわね」
のお墨付きを頂いて
Z屋から送られてきた「のどぐろ」も
大絶賛で夕食の膳を豊かにした。
あとは
「もうすぐ出来ます」
と、今回の旅で確約してくれた注文して二年のA氏
の丸盆が届く日が
楽しみなのであります。
Date: 2008/04/17(木)


北風ピューピュー吹いている

今日の野外ロケも寒かった。

さむい季節の仕事はつらい。

暑さ、寒さ、どちらが嫌いかと言えば、即答で

「寒いほう」である。

北海道のマイナス30度の冷気の中でロケした時は

セリフどころか、寒い寒い寒いという思いしかなく

なぜこんな仕事を選んでしまったのかと後悔した。

真夏の30度を越える日に、明治時代の警察官の役。

冬の制服を着て、その上にマントを羽織って馬車に

乗って街中を闊歩する、なんていうのもあった。

あまりの暑さにボーっとして意識がなくなりそうに

なったが、日陰に入り冷たい麦茶を飲み扇子などで

あおいでいただいたりすれば

「おれも案外頑張るじゃないか」と

やりがいのある仕事についた喜びを密かにかみしめる

余裕があった。

春と秋だけ仕事して、夏は信州の山の中、冬はオー

ストラリアの海辺で過ごす。

なんていう贅沢な身分になりたいものだ。

毎年、冬になると思うのである。

北風吹きぬく寒い朝はー心ひとつであたたかくなるー

昔々、吉永小百合さんが歌っていた。

とにかく寒いのは嫌いだ。

寒さに抵抗するには、どーすりぁいいのか思案橋。

まず、長袖の上下の肌着は必需品。腰と背中にホカ

ホカカイロを貼り、自前の靴下の足先きに脚用ホカ

ロンを貼り衣装の靴下を重ねて履く。それから衣装を

着て靴を履くのだが、ちょっと苦労する。

パンツ(ズボン)の前を留めるボタンがかからない。

腹を凹ませて下着を押し込みベルトで固定する。

ベルトの穴ふたつぐらい違う体型になっている。

靴も文字通り、窮クツ。やや纏足状態だが温もり優先

そのままの格好で暖房の効いた室内に入ると、あせが

噴出してくる。外に出たら寒風に晒され、暖房の効い

た控え室に逃げ込み、外で撮影、暖房室内、外、室内

これを繰り返せば体にいいわけない。へたすりゃ風邪

ひいちゃう。だから控え室には行かずに我慢する。

この季節のドラマ、注意して見るとおもしろいよ。

部屋の中の登場人物が外に出たら、いきなりデブに。

まあ二枚目やヒロインはそんなことないと思いますが

実際、ある人気俳優と隣り同士で衣装を着替えていて

Tシャツ1枚着てるだけなので吃驚した。

「それで寒くないの」

「いや、寒いっすけど、体の線が崩れるので・・・」

人気者はそれなりの苦労があるんだと感心した。

パンツ一丁の裸でテレビに出てるお笑い芸人がいるが

見るたびに気の毒になる。

「そんなの関係ねぇー」

と言われればそれまでだが。



ある寒い日。

突然、思う。

「温泉に行きたい」

温泉。あたたかい湯に浸かり、鼻歌など唄う。

最高の極楽ではないか。

そう思い立ったら、もうたまらない。

行くぞ、温泉。しかも二泊三日で行くぞ。

仕事するばかりが人生じゃないんだ。

で、何処に行く?

箱根・奥湯河原・日光・鬼怒川・・・いや、どうせ行く

なら、これぞ温泉というやつがいい。

世間的評価だと、東の草津・西の有馬。

最近は湯布院が人気らしいが、九州は遠い。

草津、お湯の中にもコリャ花が咲くよの温泉。

数年前の寒い季節に行ったことがある。

湯の花で白く濁った温泉は、硫黄の匂いとともに色々

効能がありそうな湯でありました。

すると有馬温泉か。

随分と昔にテレビコマーシャルで

「有馬ひょーえのこおよおかくへー」

というのがあったが、何処にあるんだ有馬温泉。

ふと記憶の片隅に何かが引っ掛った。

山積みの書籍の中から取り出した一冊の本。

柏井 壽・著「極みの日本旅館」

この中に有馬温泉のことが書いてあったような。

ちなみに私、この人の文章と着眼点が好きである。

あったあった。

第四章「温泉街を極める」

いつの頃からか、「温泉街」という言葉が「不況」の

代名詞のようになってしまった。

と始まる文章を全部紹介したいが、柏井氏に失礼だ。

俺も熱海が好きで何度も足を運ぶが、今の熱海は温泉

街としては寂れている。大型旅館は大部分が休業だし

ゆかたを着てそぞろ歩く客の人影も疎らだ。

柏井氏は、老舗の温泉街の中にも繁盛している旅館や

飲食店もあるが、それらが温泉街全体を引っ張ってい

くパワーがないので、全体に元気がないように映るん

です。と言い、さらに、テレビやマスコミが人気旅館

や予約が取れない繁盛振りを紹介するから、不況に喘

ぐ温泉街と繁栄旅館の対比が益々酷くなる。だが旅館

も温泉街も両方揃って活気あるところも少なからずあ

り、そこには必ず牽引役の日本旅館がある。と続ける。

そして、そのひとつの例として

有馬温泉の賑わいと、その原動力となって有馬の街を

引っ張っている

「陶泉 御所坊」の十五代目の御主人を紹介している。

この後になかなか好い文章が続いていくのだが、

光文社新書から出てるので、そちらで。お薦めです。



宿は決まった。

名前がいい。

「陶泉 御所坊」

しかし、そんな人気旅館がいきなり取れるのか。

兵庫県に電話する。

お部屋はございます、という返事。即、予約を入れる。

間際なのに、よく取れたもんだ。

そういえば去年の冬も、突然温泉に行こうと思い立ち

気に入っている湯河原の宿に、万に一つの望みを懸け

て電話したら、今キャンセルが出たので一部屋空いて

いる、という幸運に恵まれた。

そんな時に思う。

「呼ばれている。良い旅が待っている」



某月某日。 晴れ。気温4度。

AM8時。自宅を出て、有馬温泉に向かう。

体調良し、機嫌すこぶる良し。

新幹線の窓から富士の雄姿をを望む。

米原を通過するも雪は無し。

冬場、この辺りは吹雪いていることが多い。

車両がストップしたり、徐行運転になる鬼門の場所だ。

無事通過。幸先が良い。

大阪を出て10分も走れば、新神戸。

プラットホームに降り立った途端、底冷えのする寒気

に包まれる。南に来たのに東京より寒いじゃねえか。

でも、あたたかい風呂が待っている。

酒所・兵庫の純米地酒が待っている。

山海のご馳走も待っている。

ところで昼飯はどうするか。

神戸といえば国際観光都市だ。

何軒かある気の利いた洋食屋に寄ろうか。

夜の和食にそなえて、洋食を食べるか。

いや、ここは軽く蕎麦くらいに抑えておいたほうが。

AM11時か。

よし、このまま有馬に直行しちゃおう。

市営地下鉄・北神線の乗り場に向かう。

バスも有馬温泉行きが目の前から出てるのだが時間的

に折り合いが悪い。

乗換えが多いのがちょつと面倒だ。

北神線で谷上駅下車。神戸電鉄有馬線で有馬口、乗り

換えて有馬温泉駅まで一駅の行程。

ローカルの電車の旅も楽しいもんだ。

乗り換えたら高校生の集団に出くわし、騒がしいだろう

とうんざりしたら、殆どの生徒が居眠りしていた。

有馬に近づくと、乗客はじいさんばあさんばかりとな

り、元気にしゃべっている。日帰りで温泉に入ろうと

いうんだろう、いい老後人生ですね。



有馬温泉駅到着

有馬は雪景色だった。

3日前に降った雪が残っていた。

駅の案内図で宿の位置を確かめる。たいして離れてい

ないようだ。宿に向かって歩き出す。

思ったより小さい温泉街だ。修善寺ほどの規模か。

大きな旅館も何軒か点在している。

けばけばしい看板やどうでもいい安い土産を売る店は

見かけない。

しっとりとした静かな街なみだ。

観光客の数も疎らである。

暫く歩くうちに宿に着いた。

三階建ての趣のある宿だ。

チェック・インはまだ出来ない時間なので荷物だけ預

かってもらう。近辺のマップも頂く。

とりあえず昼飯だ。

「どこか美味しい蕎麦屋はありますか、お勧めの・・」

「うちでもお出し出来ますけど」

「いや、街も歩いてみたいし」

「それでしたら・・・」

と親切に地図に印を付けてくれる。

柏井氏の本で、カフェが紹介されていたのを思い出す。

「あの、カフェ・ド・坊はこの地図だと・・・」

「はい、こちらですけど、今日はお休みなんです」

「黒豆タルトを楽しみにしてきたのに残念だな」

「すみません、火曜日はお休みさせて頂いてるんです」

「・・・・じゃ、ぶらぶらしてきます」

暫く歩いていると、金の湯という看板が目に入った。

ガイド・ブックによれば

「神戸の奥座敷と呼ばれる有馬温泉。主な泉源は愛宕

 山付近にあり、北斜面には金泉が、南裾からは銀泉

 が湧き出る。金泉は海水の約2倍の濃度をもつ含鉄

 食塩泉で、湧出時には無色透明だが、空気に触れる

 と湯の中の鉄分が酸化して赤茶色に変色する」そうだ。

確か、宿の湯も「朱湯」といって茶色いはずだ。

早く温泉に浸かりたい。その前に飯が食いたい。

「山椒煮」「松茸昆布」なんていう看板が目立つ。

そうか、有馬煮はここが発祥の地なんだ。

秋刀魚の有馬煮、あれは旨い、山椒がぴりっと効いて、

えっ、炭酸せんべい。どんなせんべいなんだ。

いかんいかん腹が減って食い物の看板にしか目が行かな

い。蕎麦屋はまだか。

その時、何ともいえぬ好い匂いが鼻に飛び込んできた。

白い暖簾をかかげた一軒の店先から漂ってくる。

お好み焼き。

そういう食い物があった。何年も食べてない。

お好み焼きの本場といえば、関西だった。

猛烈に食べたくなった。

急遽予定を変更して、白い暖簾をくぐる。

中は結構混み合っている。うん、期待出来る。

カウンターの隅の席に座り、メニューを一瞥して

「ミックス、それとビール。あと浅漬けを・・・」

ビールと浅漬けが運ばれてくる。

この漬物が絶品だった、

色よく漬いたナス、きゅうり、ほど良い塩加減の白菜、

大根。自家製のこころがこもった漬物の酸味が腹に沁み

幸せいっぱい。メインのお好み焼きも美味しく、大正解

餃子にも惹かれたが、夕食を堪能するべく我慢。

さて、お腹もふくれ体も温まり、どうするか。

目当てのカフェは休みだし。

地図を見ると、すぐ近くに「湯泉神社」があった。

神社フリークスとしては行かねばなるまい。

暫く歩き、神社の下にたどり着く。

見上げると結構上の方に本殿があり、長い石段がきつそ

うだ。しかも、ここまで気にならなかった雪がその石段

には残っていて滑りそうだ。

だから殆ど足跡が付いてないのだろう。

ここで諦めて引き返す。

なんていう愚行には走らない。絶対行くべきだ。

必ずいいことが待っている。

ゆっくりと一段ずつ登っていく。息がきれる。息が白い。



誰もいない神社ほど気持ちの良い空間はない。

しかも雪に包まれた神社は凛とした空気が漂っている。

しんとした無音の世界。神を迎える神域の静謐。

このありがたい静けさも、春は桜、秋は紅葉の人出で騒

がしさで破られてしまう。

これが神社ではなく寺に一人佇むのは怖い。

気色悪い。何故だか、昔からそうだ。

お参りして宿に向かう。



「陶泉 御所坊」

部屋数 20室。大型旅館ではない。あえてそうしたと

聞く。木造建築の落ち着いた趣に心が安らぐ。

一部屋ごとに違う造りにしているらしい。

通された部屋は、和室と、フローリングに絨毯とソファ

ーが置かれた2部屋の造り。窓の下には細い川が流れ、

見上げると森の中にたたずむ寺が望める。

古いが、磨き上げられた柱や床の間が美しい。

洋室のかたすみのガラスケースに茶道具が飾ってある。

「さっそく風呂にはいりたいな。タオルとかは風呂場に

 あるよね」

夕食の時間を聞きにきた仲居さんに言う。

「今、外からのお客様が、お昼を召し上がって、入浴さ

 れてますので、もう暫く後にお入りになられたほうが

 ゆっくり出来ると思います。その時タオル類は、お部

 屋に備えてあるのを御持ち下さい」

という返事が返ってきた。

「ああ、そう」

外からの食事と入浴客もいるんだ。確かに20室しかな

くて、これだけの物を維持するのは大変だけど、それは

別にして今温かい温泉に浸かりたい俺はがっがりだ。

と少しテンションが下がったところに、仲居さんがこん

な事を言い始めた。

「あのぉ、大浴場は天然の温泉で茶色のお湯でびっくり

 される方もいらっしゃいますけど、温泉ではないんで

 すが、当館にはもうひとつお風呂がございまして・・」

天然の湯じゃなきゃ意味ないだろう、心の中では思った

が、さりげなく聞いてみる。

「それは、家族風呂のような貸切のお風呂なのかな」

「はい、あ、いえ沸かし湯なんですが、禊の湯といいま

 て、今までお客様に開放していなかった檜造りの湯殿

 なんです。よろしければそちらのお風呂もお入りにな

 りませんか、一組1時間の貸切となるのでゆっくり出

 来ると思いますが」

「それは、今からでも入れるの」

「いえ、6時から11時までの1時間ごとの入浴でして」

「うーん、酒飲んでるからなあ、飲んだ後風呂に入るの

 は心臓に悪いし、でもその禊の湯というところがそそ

 られるなあ。じゃあ夕食を早めに6時からにして頂い

 て、1時間ほど酔いをさまして9時から、それお願い

 しようかな。それで予約できますか」

「はい、ではそのように手配します」



しばらく横になって読書などして時間をつぶし、そろそ

ろ空いた頃だろうと大浴場に向かう。

赤茶色の湯が滾々と噴き出している。

岩に囲まれた大きな湯船に浸かる。

座ると鼻の辺りまでお湯がくる。舐めてみるとかなり塩

分が強い。沈んだ肌はまるで見えない。

いやー気持ちいい。

うーんあたたまる。

いいなあ温泉は。

日本人に生まれてよかった。この世の極楽とはこの事だ。

ありがたい、ありがたい。

そして夕食。

いちいち列挙する事もないので省くが一言申し添えれば

この旅館、料理の質は相当高いレベルだと思う。

かつて温泉に泊まって料理に感心した何軒かの宿。

奈良の「k楼」

広島の「I亭」

奥湯河原の「I]

などと比べても、勝るとも劣らない料理の数々。さらに

部屋付きの仲居さんが勧めた地酒もすこぶる良し。

ついでに、この仲居さん。この手の旅館にしては若い子

で、聞けばここの仲居になってからまだ半年にも満たな

いという。それにしては接客態度がいい。押し付けがま

さやおどおどした所もなく、はきはきとして感じいい。

つまりご主人が良いのだろう。ほかの何人かの仲居さん

とも会話したが、いい感じの人ばかりだった。

非常に満足して、夜は更けていった。



ここからが肝心な話になる。

私の温泉履歴に、素晴らしい体験が加わったのである。

あの9時から入る事になっていた風呂である。これが

何とも形容がしがたい、興奮と感動をもたらしたのだ。



時間になって三階に上がる。

小さな玄関がある。

「この奥でございます。ごゆっくりお入りください」

仲居さんに引き戸を開けてもらい、薄暗い庭に足を踏み

出す。中庭をはさんだ向こうに平屋建ての建物が淡い光

に浮かび上がっている。

からんころんと下駄の音を立てて飛び石の上を十歩ほど

行くと、上り框。下駄を揃えて檜の廊下に上がる。

磨きぬかれた床を歩いていると、雨の雫が水面に落ちる

ような音が微かに聞こえる。

廊下の横に設えられた小庭に、短く切った竹筒が何本か

置かれてある。音の源はその竹の筒らしい。

かがみ込んで耳を澄ます。優しい音が聞こえる。筒の太

さによって音が微妙に違う。なんとも風雅な設えだ。

角を曲がって突き当たりが浴室。

畳敷きのこじんまりした脱衣所。暖房が効いている。

すっ裸になり浴室に入る戸を開ける。

暗い。

湯気が立ち込めている。

隅にろうそくが一本立ててあるが火は消えている。

芯が燃え尽きているようだ。

中庭の向こうの本館の明かりで、湯船がぼんやり浮かび

あがっている。四角い檜の浴槽の底に大きな白い玉砂利

が敷かれている。

ろうそくを頼むか。

いや、この雰囲気も悪くない、むしろこの方が良い。

静かに湯船に体を沈める。

暫くすると薄闇にも目が慣れてくる。

けっこう大きな風呂だ。

大人四人が充分入れる広さだ。

うーん、いい湯だ。温度も丁度いい。

この静謐さがたまらなく良い。ふと上を見上げると

神棚が祀ってあった。

風呂場に神棚があるのは初めてだ。

それで「禊の湯」なのか。大きな窓が東と南にある。

月が見えたらいいもんだろうな。あいにく曇り空。

南の窓を開ける。

中庭が見える。

木々や石灯篭の上に雪が乗って、いい景色だ。

ゆらゆらゆれるろうそくの灯りでの入浴も素敵だろうな

有馬の温泉は、太閤秀吉が好んだ場所らしい。

太閤さんも、こんな雰囲気の中で湯に浸かったのだろう。

これは今までで一番気持ちの良い温泉体験かもしれない。

おそらくこれに勝る温泉は、今後の人生にもないんじゃ

なかろうか。

うん。まさに一言でいえば

「幽玄のなかに居る」



とゆうわけで有馬で貴重な体験をした。

翌日、朝は元気に目覚めて、大浴場で「朱湯」に浸かり

美味しい朝飯を頂き、付近を散策して、カフェ・ド・坊

でコーヒーを飲み、竹の箸と箸箱を買い、おもちゃ博物

館なるものに期待もせずに入ったら素晴らしい収集品の

数々に感嘆して、昼飯は宿に戻って前日に予約しておい

た、料理長の打つ十割蕎麦を堪能して、有馬温泉に別れ

をつげた。

えっ、2泊3日じゃなかったのかって。

そんな豪華な夕食を2日も続けたら胃が持たない。

それに「湯泉神社」のご利益か、この後もいい事に出会

いそうな予感を信じて



京都に向かったのであります。
Date: 2008/02/01(金)


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